オッサンは釣りをする。
このブログを知ってる方からは「いまさら、なに言っちゃってんの!?」とツッコまれるくらいの高頻度で。
子どもが成長し、それぞれの時間と活動範囲があるから、親は全く相手にされず…
特に父親は既にお払い箱で、ベンチウォーマーなポジション。
父親の存在価値は、金銭だけの文字通りキャッシュ(現金)でドライな関係性。
これはオッサンだけに限らず、世のお父さんのほぼ全てがこのようなゾンザイ扱いを受けてるハズだ。
かつて一緒に遊んだゲームも、昔は手を抜いても楽勝だったが、ある日を堺に全力でも全く歯がたたなくなる。
テレビのクイズ番組を観てても、親がサッパリ答えられない問題を、さも常識問題のように満額回答する子ども達。
子どもの成長を喜ばしく思う反面、加齢による衰えを実感し、自己嫌悪。
そして子どもサイドにおいても、日に日に衰えてゆく親に対しての憐れみと喪失感で、お互いの距離感が生まる。
以前は笑いが絶えず、仲が良かったと思っていた家庭にも、このようにしてモノトーンな時間が流れはじめる。
かつて自分が辿った道なれど、いざ親側の立場になってみると、昔を懐かしんだりもする。
かくして、自分の存在意義に疑問を持ちつつ、自らの居場所を求めて迷走し始める。
そんな迷走の道標となるひとつに趣味がある。
『趣味とは、仕事に疲れた時の癒し、そして長い老後の最良の友。いわば人生のオアシスである。(by酒井正敬)』
という名言ほど大げさでないが、趣味には、失いかけた自分のアイデンティティーの保持と、人生の止まり木という役割があると思う。
オッサンの場合は釣りだった。
「ご趣味は?」と聞かれたら、「釣りで〜す!」と答えなければ嘘になるだろう。
ひとくちに釣りとは言え、いろいろある。
川釣り、湖沼釣り、海釣りなどの釣り場の違いから、陸っぱり(陸から釣る)や沖釣り(船に乗って釣り)。
投げ釣り、のべ竿釣り、手釣りなどの釣り方やウキ釣り、ミャク釣り、ぶっこみ釣りなどの仕掛けの違いなどetc、etc…
どんな趣味にも言えるが、趣味道とは極度に細分化され、道なき道、形なき影を追ってゆくもので、釣りの世界とてそうなのである。
釣りを知らない妻は「あのパパも釣りするみたいよ!話が合うんじゃない♪」とのたまうが、釣りとは言え、釣りモノや釣り方が違うと全く話にならん!
それはまるで、「超常現象(秘)Xファイル」において、肯定派VS否定派くらいに話が噛み合わないのである。
オッサンの釣りとは、大海原でプレジャーボートをブッ飛ばして、ブルーマーリンやGT(ロウニンアジ)などをターゲットにした漢のロマン系!という事は全くないのは言うまでもない。
愛車のママチャリを漕ぎ、近所の釣り場で潮臭く、泥臭くなりながらのショボい釣り…
ターゲットは、テナガエビやマハゼのいぶし銀な小魚釣りである。
”一応”趣味だから、シーズン中は毎週のように通うことになるんだけど、足繁く通っていると、人間だけでなく野良猫とも顔なじみになる。
釣り場には、ほぼ必ずというほど野良猫が居る。
そんなぬこ達のお目当てはエサ。
釣り上げた外道をあげたりするんだけど、中には魚用のみならず、猫のエサを持ってくる人もいる。
釣り人とは、慈悲深いのである。猫には。
そんなエサをぬこ達は待ち構えていて、エサをくれる釣り人がやってくると集まってくる。
基本的には野良猫は警戒心が強いから、人間とは一定の距離を保っている。
ただ、中には警戒心が無いのかアホなのか、距離感ゼロな奴もいて、人間にすり寄って来てのおねだり。
そんな奴は皆から可愛がられ、エサを大量にゲット!という甘え上手ちゃん。
しかし、そんな奴に限って、次のシーズンには姿を見かけなかったりする。
オッサンの経験上、そのシーズンもしくは次のシーズンまでは見かけたけど、それ以上は見なくなったのがほとんどだった。
定期的にエサにありつける飼い猫と違い、野良猫は栄養不足と厳しい環境で長生きしないんだろうな…
それとも、あれほど人に懐くから、誰かに引き取られたのかな?
そう思うことにしていた。
しかし、そう思いたい一方で、それだけが姿を見なくなった理由かな?とも思っていた。
人に懐きやすい猫は、エサを多く貰えるから、他の猫よりも身体が大きく毛並みも良い傾向にあった。
つまり、健康状態は決して悪くなかったハズである。
そんな猫がたった数年で土に還るだろうか…
もっと他の人為的な理由があるのではないか…
警戒心が強い猫ならともかく、人に懐いてしまった猫は簡単に捕獲されてしまうだろう。
そして捕獲された動物たちは…
人気の少ない湾岸部に立地する「動物愛護センター」の影がチラつく。
釣り場で出会い仲良くなったぬこ。
このブログにも登場する、オッサンが勝手に命名した『ニャンキュッパ』や『マーベリック』。
今までで一番懐いた『ニャンキュッパ』
目線が鋭い『マーベリック』
ニャンキュッパの姿を見ることはもう無いんだけど、マーベリックはまた若そうだから、来シーズンも居ると思いたかった。
しかし、釣り仲間のO氏から「もうあの猫(マーベリック)も居なくなったみたい…」との悲しい知らせ。
いつもエサをあげるオバさんが言ってたようなので、かなり信用できるタレコミだと思う。
野良猫にエサをあげる、いわゆる【猫おばさん】は全国各地にいる。
猫おばさんの使命感はスゴイので、ほぼ毎日のようにエサをあげに来ている。
猫の方もそのエサが命綱なので、寿命でもないのにどこかに旅立つ事もないハズ。
つまり、マーベリックの身にのっぴきならない事態が発生したと考えのが自然である。
マベーリックもか…
病気なのか、怪我なのか、それとも他の理由なのか…
どちらにしても、もう出会うことは無いと覚悟すべきだろう。
そんな折、ネットサーフィンしていると、あるニュース記事に目が留まる。
多摩川で棄てられ、虐待される猫達に関する記事だった。
記事の内容は、多摩川の猫とそれを守り続ける人々に焦点を当てたドキュメンタリー映画に関するものだった。
そしてこの作品『たまねこ、たまびと』が今現在公開されていると知った。
実際に多摩川で何が起きているんだろう?
飼育できなくなった外来種を放流し、外来種の宝庫となり「タマゾン川」と呼ばれるまでになってしまった多摩川。
その河川敷も外来植物や外来のクモ、ヘビ、サソリなども生息している多摩川。
オッサンがいつも釣りをしているその場所で、オッサンが目に見えていない場所で、見ようとも思わなかったその場所で、何が起きているのか?
釣り場で出会ったあの猫たちが、どんな環境で生きながらえているのか?
姿を見なくなった彼らがどうなってしまったのか?
どうしてもそれが知りたかったオッサンは、重い腰をようやく上げたのでした。
調べてみると、『たまねこ、たまびと』はそこら辺の映画館では上映されてないらしい。
そりゃ〜、そうだ!
とてもマイナーな内容のドキュメンタリーで、多摩川というミニマムな世界観。
どう見ても一般受けしそうもないダーク&アンタッチャブルなテーマ。
何百席もある4DX SCREEN&Dolby Atmosな上映設備のシネコンではやらんだろうて…
調べてみたら、オッサンちから一番近いのが「シネマ・チョプキ・タバタ」という映画館。
なんと!席数20席の日本一小さな映画館という触れ込み。
ニュー・シネマ・パラダイスも真っ青なプチ劇場である。
「田端は遠いな〜」と一瞬ひるんだが、上映期間も短く、期限が迫っていたので、このチャンスを逃せばもう観れないかもしれないぞ!
20席しかないので「事前予約をオススメしまっす!」とのことだったので、思い立ったが吉日でその日の席を予約する。
よし!コレで観れっぞ!と思ったが、問題は上映時間が18:40〜のレイト・ショー。
上映が終わり、田端からの帰宅となると、もうおネムの時間である。
いろいろ考えると、面倒臭くなるのでサッサと出発した。
田端駅北口に降り立ったオッサンは、駅前でボ〜ゼンと立ちすくんだ。
山手線の駅のくせに、駅前が寂れたな〜んもない駅だった。
早めに到着しても「山手線の駅なんだから、何かしらで時間を潰せるだろう…」というオッサンの目論見は、跡形もなく崩壊したのでした。
後ほど判明したのですが、田端駅は山手線30駅で「最もダサい駅2位&マイナーな駅2位」と言う称号があるらしい。
※ちなみに最もダサくマイナーな駅1位は、休憩ありのラブなホテル密集地として有名な「鶯谷」
山手線の駅ビルに付きものの「アトレ」も運悪く改装中でお休み。
唯一時間を潰せそうなマックやコメダ珈琲店も満席で入れず…
しょうがないので、周辺をうろついてみる。
北口はこんなトホホだけど、南口はもっと繁栄しているかもシンマイ!と南口へ行ってみるが、期待したオッサンがアホだった。
北口以上に何もなく、「本当に東京都心の駅なの?」と叫びたくなるような寂れ具合。
まさに都会のサバイバル!
ここの住民はどうやって生きているんだろう?と心配になった。
こんな立地なので、田端は山手線内でも家賃相場が一番安い街というのが、自虐的な”売り”らしいです。
南口にもシビレたので、とりあえず目的地に行ってみる。
一応、映画館の場所は地図で確認したけど、確認する必要もないくらいに分かりやすい場所。
しかし、映画館の建物は、注意してないと通り過ぎるくらいに目立たない建物。
ここに映画館が入ってるんだ!?
手作り感満載なサイン
確かに『たまねこ、たまびと』はやってるらしい
もう一日早ければ、映画監督の舞台挨拶もあったらしい。惜しかったな〜!
まだ早かったが、席は当日受付時に指定するシステムなのでサッサと済ませたんだけど、その後も映画が始まるまでの時間潰しが大変だったな〜
やっと入場し席に座るが、ゆったりした席と劇場空間で良かった。
スクリーンも劇場の割には大きめで、観やすそうだ。
日曜日ということもあって満席だったけど、「この人達は何でこの映画を観に来たのだろうか?」
絵に書いたような可愛い猫が登場する訳でもなく、決してハートフルな映画でもなく、人間のダークな部分を垣間見ることになるであろうこの映画。
しかもドキュメンタリーである。
何を求めてこの映画を観に来たのだろうか?
恐らくは、こんな映画をわざわざ観に来るくらいなんだから、博愛精神あふれる人達なんだろうて。
しかし、観客からちょっと宗教っぽい臭いも感じられる。
満席の館内を見渡しながら、ただの好奇心だけでやって来たオッサンとしては、居心地の悪さに尻がむず痒い。
映画が始まる。
舞台は、東京都と神奈川県の県境を流れる多摩川の下流域。
都市部を流れる多摩川河川敷に遺棄された猫たち。
登場人物は、多摩川に棄てられた猫の世話をする河原で暮らすホームレスの方や、近隣のボランティアの人々。
その中でも、小西さんという夫妻の活動を通して話は進行する。
夫は写真家であり、多摩川を自転車で巡りながら、こうした人々との交流を持ち、遺棄された猫の救護活動をしながら猫たちの現実をカメラに収めてゆく。
妻は、猫の救護活動をなんと30年以上も毎日休まず続け、野外で暮らせなくなった猫を引き取り世話もしている。
遺棄された猫たちのほとんどは飢えや病気、台風の冠水で命を落としてゆく。
それだけではなく、撲殺や毒殺、そして飼い犬に襲わさせて噛み殺される事も…
映像では、河原で日々残虐な行為が繰り返されている現実を知ることになる。
小西さんの言葉が印象に残る。
「野良猫は野生動物ではない…、棄てられた猫のほとんどは餓死、衰弱死します」
野良猫って勝手に生きて繁殖していると思いがちだったけど、街なかの野良猫なら、猫おばさんとかから毎日餌をもらって繁殖出来るかもしれないが、多摩川の過酷な環境で生きてる猫が繁殖なんて簡単にはできないだろう。
河原の猫達は人間が棄てたから、そこに”いる”という事になる。
それ故に、厳しい環境でも生きる術を持たない猫たちは、消えてゆく運命にある。
そんな中、守る側に発見されたたったひと握りの幸運な猫が、辛うじて生きてゆける。
お世話をする人々は決して裕福ではなく、なけなしの収入から餌や病院代などを捻出している。
ホームレスの方の中には、厳しい生活の中で、自分が食べなくとも猫を飢えさせないようにしている方も多いらしい。
そんな方にとっては、猫は単なるペットではなく、大切な伴侶という存在。
そして、心無い人間に狙われるのもそのような猫。
なまじっか人間に慣れ、決まった場所に定住しているからこそ、ターゲットになりやすい。
いなくなった大切な伴侶が、無惨な姿で見つかった心境は察するに余りある。
小西さんは言う。
「虐待する人々は老若男女関係なく、普通の人がしますよ」
「虐待される猫の数は、増えもしないし減りもしない印象。これからもずっと続く。自分が死んでからもずっと…」
守る側の人に辿りあったのも束の間、今度は虐待という危機が潜在している。
小西さんの妻によると「野良猫に餌をあげていると、『自分んちで世話すりゃ〜いいじゃねぇ〜かよ!』という事も言われる…」
「棄てられた猫にはもう家で飼えない猫が多い。だからこうして外で面倒見るしか無い…」
よくテレビで、棄てられ殺処分される予定の保護猫を引き取り、人に慣れさせる保護猫活動の番組がある。
アレはアレで素晴らしい活動であるし、人間と猫の信用と絆の再構築ができて良かったと思う。
しかし、人間に対する不信感MAXで、そもそも引き取ることも出来ない猫も多いらしい。
命を棄て、虐げる人間がいる一方で、命を救い、守り、見つめ続けている人々の存在。
人間には残虐性が内在している反面、命を慈しみも共存している。
河原の猫たちは、そんな人間の二面性を表面化させる存在なのかもしれない。
映像に映る背景は、オッサンがよく知っている場所ばかりだった。
それ故に、あの場所の草陰ではこんな現実が起きていたんだ…とショックだった。
小西さんという方をご存じなかったのですが、きっとどこかですれ違ったりしたことがあったのかもしれない。
今後は目を光らせておこう。
映画の帰り道、いろんな考えが浮かんでは消えてゆく…
多摩川の河川敷で、かろうじて命を紡いでいる小さな命。
きっと想像よりもかなりの数が棄てられているんだと思う。
その中で、恐らくは数100匹に一匹くらいの割合で、幸運にもホームレスの方やボランティアと巡り合い、生き永らえる事ができる。
その影には、誰の目にも留まらずに、飢えや病気や冠水、そして時には虐待によって命を落としていった数え切れない命がある。
オッサンが命を奪う側にはいたくはないと思うし、今はそうでない自分にホッと安堵するが、ある日突然に豹変し、そちら側になってしまう可能性もゼロではない。
あの作品をわざわざ観に来るくらいなので、あの観客たちもオッサンと同じ側だと思いたいが、もしかしたら、奪う側の人間もあの館内に居たのかもしれない。
人間の光と闇の部分は、薄っぺらで繊細かつ脆弱。
何か些細なキッカケで簡単に裏返ると思うと、つくづく恐ろしくなる。
「真実はただひとつ」という事はなくて、人の数だけ真実はあると思う。
モノの見え方、捉え方は人それぞれなんだから、その分違った考え方があって然るべき。
この作品もドキュメンタリーなんだからコレが絶対的な正義と真実!という事ではなく、この映像の世界も作り手のフィルターを通した”現実のひとつ”である。
今回はたまたま守る側の現実を観たのであって、棄てる側や虐待する側の現実もまた存在する。
もしかすると、そちらの言い分も納得出来る部分もあるかもしれないし、お互いが共感しあえる部分もきっとあると思う。
とは言え、命は粗末にするべきではないんだけど…
オッサンがばかうけ(青のりしょうゆ味)をかぶりつき、ホットミロを飲みながらこの記事を書いている間にも、多摩川では飢えと寒さで消えてゆく命がある。
あぁ、無情なこの世界。
彼らがもし次に転生することがあるなら、人間なんぞとは全くかかわらない環境であって欲しいと切に願う。
作品に登場するホームレスやボランティアの方々のような立派な事はオッサンには出来ない。
オッサンに出来ることなんてな〜んも無いんだけど、せめてこの現実を忘れないようにしようと思う。
「そう言えば、最近野良猫を見かけなくなったな〜」早くそんな日が来ると良いな〜!
釣り場で出会った野良猫『ニャンキュッパ』や『マーベリック』がどんな最後だったのかは分からない。
せめて、少しでも苦しまずにいられた最後だったらと願う。
まぁ、どこかで生きてるかもしれんけど…